To be naked is not a grief

Denmark放浪記・奔放な人生を祝って

帰国した(春)

何か突然のアクシデントが起こったりして、待っていました緊急事態という感じで、帰国できない未来を願っていたのだけど残念ながら日本に戻って来てしまった。

 

クリスマスから止め処なく打ち上がる花火、一家の亡命を描いたサウンド・オブ・ミュージックを見た後にパレスチナでの虐殺と沢山の亡骸について児童精神科医と語る元旦、三島由紀夫を愛する若い友人と観た『怪物』、ロンドンで再会した奔放な女たち、イデオッツの夜、帰国日の朝まで一緒に過ごした愉快なナンパ師のこと、いろいろなことがあったのにブログに記せないまま時間が過ぎてしまい、人生でもっとも豊かな、暗くて長い冬の記憶はまだ私の体内にある。

帰国してから三週間ほどは、毎晩デンマークの日々が恋しくて涙する毎日だった。一ヶ月経った今では涙は引っ込んで、生気のない顔をしなくなった、やけに心の安定した私が新しい職場で忙しなく働いている。

毎朝七時起きの定時出社なんて無理(20代は実際に無理だったので離職するしかなかった)と怖がっていたけど、稼がないと生活できないし会いたい人に会えないから意地でも起きなくてはならないという自己暗示が功を奏し、なんとか一日を強制終了させて布団に入る習慣ができつつある。帰国してから驚いたことといえば大量の物品にあふれた商店街やデパートに惑わなくなったこと。私の人生に必要なものは多いけれど、欲しいものは多くはないことを理解して、欲しくないものを衝動的に所有することがなくなった(しかしすでに持っているものには情があるから手放せない)。

夜七時には今日は上手く眠れるかについて悩まないといけないなんて思いもしなかった。その他にも生活の変化は多々ある。たとえば、誰かに運ばれなくても自発的に風呂に入れるようになった。起床してすぐに低脂肪乳に浸したオートミールとレーズンを食べて、昼は数粒のチョコレートと美味しいお茶のみ飲み、ほどよく腹が空くので夜は意欲的に自炊して、そのルーティンを繰り返す(稀に誰かと会う時のみそれを乱す)だけの美しい日々。水筒生活に切り替えれば一週間後には地面に落っことして滑らかな筒のモスグリーン色が傷だらけで、ヘッドホンで耳を鍛えながらの移動生活に切り替えれば毎日のようにイヤリングを片方だけ落っことす。失くなったものたちが代わりにあなたの厄を落としてくれているんだよ、という言葉に納得しようとするが少しだけ悲しくもなる。だとしたら私の人生は毎日厄日で、すれすれのところで致命傷を回避しているのかもしれない。「あのときあんなに苦労したのだから今がこんなに美しいのだ」という思い込みも止めることにした。やり直せない、ドラマもない、なんてことない日を淡々と祝おうと決めて帰国している。「いつか私は報われなければならない」という呪いとはお別れだ。

 

帰ってきてよかったと心から思えたのは、約一年ぶりのスト活、四月の第一週末に岐阜でかけがえのない時間を共有できたためである。誰かに会いたいと伝えるのも、会いたいという気持ちが持続可能性のある欲望だと信じることも、私にとってはとてつもなく難しいことだけど、劇場は例外である。裸になれる踊り子あるいは裸になりたいと願う客に会いに行っている。そして盆の前にいつまでも居座っていたいと思う。たとえば仲違いしている人がいても、踊り子の圧倒的な裸の強度の前では皆平等だから、個人間で接触する必要も過去の関係性を掘り下げる必要がないまま同じ空間に居られるかもしれないとも考えたりもする。

その日は駅から遠い民家に泊まり、止まらぬ深夜の奔トークに腹を抱えて笑い、すぐ明けてしまう夜を見限らずにスト客三人でそれぞれの布団に入った。翌日はまた別の三人の組み合わせで劇場が開くまでの間に花見をすることになった。祭りで賑わう街を背にして、私たち以外に誰もいない静寂とした、かつて海が在った公園で過去の記憶を一緒になぞるような小旅行をした。脳がこてんぱんに癒やされてしまうような心地良い時間って、なんの期待もされていなかった更地に偶発的に生まれるものだ。油断はできないし渇望したところで手に入らない。すうっと流れるようにやってくる日があり、こういう日があるので今も私は生きている。口角はずっと上がり、吹けない口笛の音色が鳴ってはそこらじゅうに飛び跳ねている春。生の営みも未来も奪われ、私は自由だという感性を封じられ、活動を制限され、過去の痛みを蔑ろにされている人たちのいる春。どちらも同じ季節。

 

さて、書き損じのデンマークの日々については五月の文学フリマ東京にて新作zineとして世に出そうと思っている。宣言通り貯金はすっからかんになり今は製本代を支払えないくらいお金がないので、初版は家庭用プリンタで印刷してホチキス止めになりそうだ。経済的なこともあって個別に誰かと一対一で会う余裕がない(※スト客は例外)ので会場(※または劇場)でお会いできたら嬉しいです。

世界のこと日本のことそしてあなたのことも見えていなかった

「あなたのブログを10年ほど読んでいました」と教えてくれる人たちと出会うと、言葉にならない不思議な感情が私の肉体を離れては戻ってくる。世の中には物好きな人もいるもんだとか、生きているとこれほど良いことがあるのかとか、すぐに打ち解けて急接近できてしまう人との軽快さも好きだけど長い間気付かれずにそばに居てくれた人との時間には叶わないなとか、色々な感情が隅々まで伝ってその輪郭をなぞるようにゆるやかに交錯する。

 

同じように私も10年以上読み続けている(2014年以降更新されていないので、読み返しているという表現が正しいかもしれないが)ブログがある。それが詩人・井上瑞貴のブログだ。

それは、底も天井もなくなってしまった内的世界とこの社会を接続する方法を探すことに十年あまりを費やしてしまった私の*1、生き延びる指標の一つとなり、美を愛する感覚を呼び起こしこの魂を助けた。「外傷は癒されてはならない」という戒めのような誓いは、ここから深く影響を受けたものだ。過去と距離を取れるようになり、日本を離れて束の間の平和を手に入れた今、当時きちんと読めていなかった記事を読めるようになった。既に20年ほど前の日付で、世界で起きている紛争、殺戮、について書かれた記事がいくつもあることにようやく気付くのだった。

(以下「テロ」で検索した記事一覧)

http://freezing.blog62.fc2.com/blog-entry-776.html?q=%E3%83%86%E3%83%AD&charset=utf-8

 

これまで自分の心的外傷への応急処置で精一杯だったから、世界の出来事に目を向けられるようになるまでにこんなに時間がかかってしまった。今月に入りガザに関する報道が毎日、目に、耳に飛び込んでくるようになって、勉強会にて詩人マフムード・ダルウィーシュ (محمود درويش 、Mahmoud Darwish)という故人の存在を知る。日本語訳の詩集はまだ読めていないけど、彼がヒロシマを訪問した記事やパレスチナ表現者たちの情報が検索すればいくつか出てくる。さらに英語圏なら情報も多いようだ。

9月半ばから1ヶ月間、デンマークの他の島や近隣諸国を旅していた。途中でコロナにも罹患し、上着を失くし、最安列車に乗り遅れて大損をするなどしたが、充実した毎日だった。10月10日、世界精神保健デー企画のイタリア出張で出会ったミャンマーの芸術家たちからは、クーデターの影響が続く、たくさんの人が亡くなった土地で「NO TRAUMA NO ART」というスローガンを掲げながら現地で創作を続けアートワークショップを行っていることを聞いた。そしてプラハでは同世代の女性たち*2を訪ねた。上手く話せなくても、相手の国の歴史を可能な範囲で学んでから会わねばと思って、ドイツの支配下にあってチェコ語の使用を禁じられていた時代に、人形劇など文化芸術分野だけはチェコ語を使うことが許されていたこと、それが民族復権運動につながったことを事前に読み込んだ。かつて劇作家でもあったチェコのハヴェル大統領は「演劇はつねに時代の精神的な中心にあらねばならない」と語ったそうだ。日本はどうだろう?日本で文化芸術の力を信じている人はどれだけいるだろうか?

サバイバーがすぐ隣にいると仮定した時、全く同じ言葉を世界に発信できるだろうか、という問いがいつだって降りかかる*3。可哀想な人とみなされ続けること、被支援の対象としかみなされないこと、清い存在を求められ続けることは、大抵の場合、その人がその人として生きる力を奪う。ジェノサイドを理由に数え切れないほどの死者を見送った人、生まれ育った土地には戻れなくなった人(帰還権の尊重*4)、あるいは逃げるという選択肢を奪われ続けた人と出会う時、類似経験を持たない自分自身の権威性、性根の卑しさ、格差が露わになり、私の皮膚を這いつくばっていく。支配的な、救済目線の関係からどう距離を取れるだろうか。もしかすると、人と人が平らな場所で出会い直せるのは芸術について語える時のみかもしれない、しかしそれも幻想だろうか?なんて、様々な人が行き交う道を、唸りながら歩き続けるしかなかった。

 

出典『 ヘイトクライムに抗う―憎悪のピラミッドを積み重ねないために―』(2020/12/2)https://d4p.world/news/7867/

殺戮、自死の報道、命懸けの告発、が大きなうねりとなり多くの人の心を掴んで離さない、その熱を浴びていると「世界はこんなにも悲惨なのだから、戦争のない地域での個人の傷なんて・・」と比較の論理を持ち出す人の心情を、ヨーロッパに来て改めて想像することができるようになった*5。それを私は支持しないというか、それを支持しないために自分の心もしっかり守る枠組みが必要になる。外側の痛みと内側の痛みどちらにも蓋をしないためには、自分が壊れない範囲の境界線を引き直しバランスを取らないといけない。案外それが大変で、今月デンマークに戻ってからは睡眠に支障が出ている(夜中3時過ぎまで眠れない、あるいは夕方に糸が切れたように数時間寝込む)。多少臭っても同じ服を着まわして、毎日風呂に入らなくていい海外の価値観がありがたい。デンマークの秋は想像以上に寒くあまりに暗い。週の大半は自室に引きこもり、抑うつ状態の中で、食パンを齧りながら、日本のリモートワークや優先すべき対応を毎日行っている。(週2くらいアクティブに活動できるという具合だ。)

 

何度か書いているが、日本社会を離れて初めて、「日本人(アジア人)」であることをとても意識するようになった。特に初対面の人から決まって、個人ではなく「日本人的なもの」が会話の引き合いに出されることに違和感を持ちつつ、他者に同じことをしがちな自分にもげんなりする。そんな中で出会ったリナ・サワヤマの、ミックスルーツを出発点としたインタビューがとてもよかった。

www.bbc.com

同時に、いくら私が個としての交流を望んだとしても、自国(ルーツを持つ国)の政治家による言説や方針、あるいはメディアが生み出した国民性/民族性に対する漠然としたイメージが、海外で暮らす自分の利害として跳ね返ってくるという現実があると知る。「(特定の宗教や思想と結びつきにくいとされる)日本人」とみなされれば、一方的に命を狙われるような暴力*6には遭いにくい。それは国際社会の中での日本の立ち位置があるからこそだとも痛感している。否応なしに、日本という国(またはアメリカ)に守られている、という感覚。

そして「幸福な国」「世界に誇れる国」「治安の良い国」というのも、選択を誤り続ければ崩れ去るということ。日本も民主主義国家を名乗りそのための司法やシステムがある以上、自分たちの選んだ政治や社会に対する責任が発生する(「投票率が低いから」では済まされない)。無関心でいることで、あるいは誰かに責任転嫁し自分を顧みなくて済む判断をし続けることで、反対意見や複雑な思いを抱えた意見に耳を傾けないことで、取り返しのつかない深刻さを未来に生み出すだろう。排除をしないという態度は、自分にとっての不利益を受け止めるということでもあるし、暴力に対してNOと表明しつつも潔白さを約束しきれないグラデーションの中で藻掻き生きるということでもある。その上で、私は自分に苦痛を与えるものとも、不快感とも付き合っていきたい。予定調和的にいかない世界を、不条理や狂気を愛すること(合理的でない、快適さが常に約束される訳ではない社会で生きること)を諦めたくないのである。気味が悪いと指差され疎まれ続けたって構わないから、あなたが出発しいつか帰ってくるこの駅の踊り場で叫び続けさせてほしい。

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気が付けば、いつの間にか誕生日を迎えていた。当日はこちらで出来た友人と過ごした。コペンハーゲン大学の講義に忍び込み、水辺でケーキを食べ、デンマーク語で祝福の歌を唄ってもらった。

嬉しいことは続き、夏以降、奔放な人たちが日本から会いに来てくれていて、来月には3人目と会う予定。そして過去にデンマーク留学経験があり日本で自死遺族のサポートをしている人と知り合い「人生の過渡期というテーマで話してほしい」と依頼され、初のラジオ出演をした*7。また、ZINEを読んでくださった編集者のイワイさんからの依頼もあり、ストリップ関連誌の寄稿もした。下記『ストリップと読むブックガイド』では一番最後に文章が掲載されている(ハム名義)ので是非お手に取ってみてください。来月の文学フリマ東京37では合計3ブースで、関わった書籍*8が販売されます。

デンマークに来て5ヶ月。折り返し地点に入った。本日ようやく必要書類が揃い住民登録の申請が出来たが(でもやり直しになったらどうしよう)、これまで特定の誰かに定期的に近況報告もしていない、情報発信さえほとんど出来ていない状況があった。

 

なので、11月4日(土)夜、近況報告を行うことにしました。生活が厳しくなってきた話をしたらサバイバー仲間が応援の声掛けをしてくれて企画が実現。バースデーカンパも呼びかける予定です。(以下詳細・申込)

https://peatix.com/event/3740124/view

告知から日が短いですが、アーカイブは残さないので、近況を気にしてくれている人には是非参加いただきたい。そもそも何故デンマークに来ているのかも、改めて話せる機会にできればと。5月下旬からのデンマークでの日々、9月・ウィーンの世界精神医学学会そしてチェコ訪問、10月・6年ぶりのイタリア再訪についてなど、お話できればと思います。

どうぞよろしくお願いします💌

*1:悔いはないと同時に悔いがありすぎたことが今海外にいる理由でもある

*2:デンマークに来たばかりの頃、ドミトリー宿で知り合った

*3:同時に、家庭内や身近な人間に暴力を振るう人権活動家、〇〇(対人支援・ケア職、教師、アーティストなどが私の中では浮かんでいるが、それ以外が浮かぶ人もいると思う)として名誉や社会的承認を得ようと必死な人(というよりも〇〇に国家予算を十分充てられない国、生計が成り立たず少ないパイを巡って競争するしかなくなる構造)に対する悲しみと憤りの入り混じった批判感情も覚える

*4:【翻訳】パレスチナ人の命も守れ:ユダヤ人の学者ジュディス・バトラーイスラエルの「ジェノサイド」を非難 / カフェ・フスタート運営の方による文章 https://note.com/bashir/n/n78fb1d686563?sub_rt=share_pb

*5:実際にそういうことを高らかに主張する人もいる。自身の加害性を突き付けられるような身近な人間関係には目を背けながら、正しい自分に酔いしれる人は信じられないほど多い。そして他者の不幸を理由に自分の傷を過小評価してしまう人も多い

*6:アジア人の見た目だからか、いきなり路上で肩を殴られたことが一回あったけど、またそれとは別の次元の暴力形態

*7:放送日は後日お伝えします

*8:

『イルミナ』:寄稿文掲載本(第5号)とZINE『添い寝と生還』委託販売

『ストリップと読むブックガイド』:寄稿文掲載本

『ポリーウィーク2023』:対談インタビュー掲載本

猛暑と出会えない夏

猛暑を経験しなかった夏は生まれて初めてかもしれない。

八月半ば、日本から遊びに来てくれた人と長袖を羽織って街に繰り出した。その日は突然船に乗る流れになったのだが、船内に酒瓶を持ち込み安酒場にしているデンマークの人たちがそれはもう陽気に踊っていた。最終便ではスウェーデン(helsingborg)を背にしてすべてを解放するようにカントリー・ロードを大熱唱。歌の速度が上がり、hey!hey!と合いの手が加わり、ほろ酔いで円形が乱れる。それでも踊りは止まらない。(え?この曲ってこの使われ方でいいんだっけ?)と驚きながら私たちは新しい体験、「カントリー・ロード・盆踊り」を履修した。

デンマーク滞在三ヶ月を迎え、教育機関等の視察ツアーに参加したことがきっかけで久々に四六時中日本語で交流をする機会があった。「日本が恋しくならない?」と聞かれて「ならないですね!」と即答するのだが、唯一日本の踊りだけは恋しい。死者と共に生を祝うための盆踊りもそうだし、ストリップでいえば、九月前半の道頓堀劇場の香盤が素晴らしすぎてコペンハーゲンから渋谷に向かう夢を見てしまったほどだ。

後日改めて記事にする予定だが、この夏はスウェーデンオーストリアを旅行した(ストックホルムのダンスミュージアム舞台芸術ミュージアムに感動したので是非皆さんにも行ってほしい)。この秋はチェコ、イタリア、フランスを訪問する。そろそろ貯金が底をつくため、なんとか稼いで(はて、どうやって?)、冬にはドイツ、ポーランド、イギリス、スペインにも行きたいと考えている。 

ストックホルムのダンス・ミュージアム

舞台芸術ミュージアム(ダンスミュージアムと同チケットで入れる)

ザルツブルク音楽祭での野外サロメ上映。北村氏のコラム(https://wezz-y.com/archives/50361)を事前に読んでから鑑賞した)

日本という島国を離れて、他国と陸続きのヨーロッパの歴史的建築物の中にいると戦争の痛ましさ、喪失体験と共に生きる人の逞しさを鮮明に想像する。六年前のイタリア渡航では精神科病院を廃止した国の精神保健の在り方から愉快さを学び、脱施設化に至る運動と政治の畝りに感動するだけで終わってしまったけど、今回は何をどうやって持ち帰れるかという問いが強くある。

 

先月からお世話になっているAirbnb宅で「ヒロシマ」図録を発見する。ホストと元夫(彼女は「子どもたちの父親」という表現をしている)は何度か日本を旅したことがあるそうで、その時のお土産の畳三畳がリビングに無造作に放置されている。原爆については小学生の頃、図書館で読んだ漫画「はだしのゲン」が私の最初の記憶。同居していた祖父母(故人)はあまり戦争の記憶がなかったが、ジャーナリズムに関わる父が被害のみではなく戦時加害者としての日本の歴史をたびたび教えてくれたことは有り難かったとつくづく思う。

働くようになってからは、DV(家庭内暴力)、児童虐待、そして戦争、暴力の後遺症としての精神疾患・トラウマが時に人を被害者にも加害者にもすることを痛感してきた。いないことにされる、忘却される、変えられない特徴を嘲笑われる、意思を確認されずに否定される、存在を尊重されないという経験の積み重ねは、その人の生きる力を削いでいく。何に傷ついたのか、何が自分にとって譲れないものなのか、何度も何度も説明しても不思議そうにポカンとされる時、相手にとって愛玩しやすい振る舞いを求められる時、そこにあったものが好意や善意でどろどろに甘くコーティングされた幻想だったのだと気づく。何度経験しても哀しいがそれは真実なのだから仕方ない。それを見なかったことにしたらこの生から彩度が失われてしまう。それだけは嫌だ。

 

また、海外にいると外見的特徴でアジア人とみなされ、ジャパニーズガール♡と呼ばれ、アジア人同士で比較されることもあるので心の中は複雑である。肩の力を抜いて暮らしているつもりだが、もし粗相をすれば「日本人だから」とみなされる不安が一切ないとは言えない。白人男性の隣を歩く時に初めて知る自分の感情にも対峙する必要も出てくる。個人的経験ではあるが、北欧以外のヨーロッパでアジア人であることを小馬鹿にしてくる人もたまにいる(言語力が上がればもっとそれに気付くことになるだろう)。しかし日本にいた頃から同じような状況、たとえば性的少数者を未知の生き物みたいに扱う人の前で喉元がヒュッとなる経験を知っているので悲しいかなそこまで痛手ではない。ただ、自分だって北欧で生きる人やその歴史を雑にまとめていた。実際は多くの人が見かけや言葉ではわからない色んなルーツを持っていて、彼らのアイデンティティも様々。自分の狭い物差しで◯◯人と他人を括ることには慎重でありたいし、やはり日本で性暴力を受けた韓国の女性アーティストに真っ先に「良い日本人もいるから日本人を嫌いにならないで」と懇願する態度からは距離を置かないといけないとも考える。

 

こちらに来て連日流れてくるのが、男児への性暴力に関する報道である。私にも十歳に満たない頃の被害がいくつかあり、アミューズメントパークで着ぐるみを着た大人に胸を揉まれた記憶が急に蘇る。子どもの権利を力強く提唱する国でようやく安堵できている側面もあるのかもしれない。ホストの子どもたちが外国人である私をあたたかくハグしてくれる時、思わず泣きそうになる。

戦後長きに渡るジャニーズ事務所の性暴力が軽視にされていたことと、第二次世界大戦を経験した男たちの心の傷/PTSDが軽視されていたこと、戦時性暴力が隠蔽されたこと、「自分はそっち系(同性愛者)はないですから笑」とネタにしたり「性別を偽る犯罪者が増える」という偏見を拡散する人たちの軽率さは地続きであると考えている。この間も社会福祉士養成学校で講師が男性同性愛を揶揄し教室で笑いが起こったという話を聞いた。十年前から変わらない人権意識に本当に呆れてしまった。大学教員や講師の皆には、誰かのジェンダーセクシュアリティを嘲笑うような同僚がいたらハッキリと注意してほしい。決してその場の空気に合わせて笑わないで。

性暴力とは、性的事柄に関する選択そして意思決定を蔑ろにされるということ、(悪意の有無に関わらず)結果として自他の境界を侵害されること。それは女性のみが取り組む問題ではなく一人ひとりに自他の権利と欲望との付き合い方を問うものである。他者の性暴力被害の告白に胸を痛めて連帯して終わりという態度に「?」が浮かぶ。あなたはどうしたいのか、と見つめ返せば目を反らされる。欲望に対する自問自答(したいこと、したくないこと、できること、できないこと、必要なこと、不要なこと、それを保留にすることを含め)を疎かにしないでほしい。何をして何をしないのか、何を語り何に沈黙するのか、知識をつけて選択しその責任を引き受けることを疎かにしないでほしい。

 

夏が終わる前、ノンバイナリーとAスペクトラムに関する研究調査に協力した。赤裸々に幼少期から今までの感覚や試行錯誤の日々を語れて大変心地の良い時間だった。私を女(女体でもなく、その人のイメージの中を生きる女)と解釈したい人と性的行為をすることは、労働や特別な枠組みの中なら特に傷付かないが、平時は本当に厳しいし、やわらかい部分を踏み躙られたなぁと感じる。あなたは私ではなく誰を見ているのだろう。それでも誰もが間違えるし完璧ではなくて揺らぎの中を生きている。だから私は叫びすぎて乾いた喉を新たな水分で潤わせ、あの森の光を浴びに行く。思い通りにならない現実に対して豊かに折り合いをつけられる人、加害者意識に酔うのではなくて傷くこと失うことの痛みを過度に恐れず他者と関われる人ってこの社会にどれくらいいるんだろう。わからない。

 

デンマークでは自然や建築の美しさを共に味える人とばかり過ごしている(たぶん上手く話せないためにそれが最善策になっている側面あり)。林の中を散策したり、屋根に登って桃色の夕陽を眺めたり、地面に寝そべって流れ星を探す。公平に人を包み込み愛する図書館に守られに行く。その感覚の近い人と余生を過ごしたほうが良いのだろうという解が導かれる。あなたが好きだとか一緒に居たいとかそういう言葉は実はなんの支えにもならなくて、言葉を失うほど美しいものを一緒に味わえたその瞬間に未来の私が支えられている。それ以外、この生を支えるものはいらないのかもしれない。

渡航準備、住まい探し、今後について

デンマークに滞在してちょうど二か月が経つので、渡航前から今に至るまでの中間報告記事です。ワーホリビザを使って渡航予定の方の参考にはあまり(いや全く)ならないかもしれません。随時更新する可能性があります。(※2023/07/27更新)

 

 

デンマークのワーホリビザ申請について(2022年9月時点)

デンマークのビザ申請方法 | ETIAS application site (etias-web.com)

一部例外を除き、ワーホリビザは30歳までという年齢制限があります。

 

私は30歳最後の日、つまり31歳の誕生日前日に人生初のビザ申請をする(10日前に申請準備を始める)という無謀な行動をしましたが無事に居住許可が下りました。

 

ビザ申請に必要なものは、①資金所有の英文証明書(復路航空券資金や滞在資金があるかの証明書)②パスポートのコピー③居住許可申請書(入局管理局:new to denmarkにてID作成)④身分証(私はマイナンバーカードを使用)⑤全滞在期間に適用する医療保険加入証明書⑥事務手数料*1 でした。

港区にある「VFS.GLOBALビザ申請センター(以下ビザ申請センター)」の予約を取り、申請前又は申請と同時に生体認証登録をすることも必須条件です。

 

10日間でなんとかなったのは以下の要因が影響しているので、なんとかならないこともあると思います。どうか参考にしないでください。

・東京住まいで平日昼間にサクッと休める仕事をしていたこと(ビザ申請センターは月曜から木曜のみの営業、かつ予約枠が限られている)

三菱UFJ銀行を使っていたこと(残高証明のオンライン申請が可能だったため最短で窓口で受け取れた)

・パスポートの有効期限に余裕があったこと(5年前の初作成時*2、10年間を選んでいた自分に感謝)

・締め切り直前にのみ発揮される謎の集中力と判断力(実績多数)

 

実は、⑤医療保険の加入だけ間に合わなかった(私が使おうとした保険会社は渡航半年前の加入が出来なかった)ので、その旨を入国管理局と日本のビザ申請センターに事前にメールしました。前者には「もうすぐ31歳で最初で最後のワーホリビザなんです。ご慈悲を」と拙い英語力で懇願しました。ビザ申請センターは日本語のやり取りが可能でほっとしたのを覚えています(外国語で会話しなきゃと思うと心臓がバクバクしていたので)。「渡航予定が半年以上先だし、医療保険加入証明もないし、許可が下りるかはわからない」と窓口の方に言われましたが、翌月保険証の電子データを入国管理局にオンライン提出したところ、その一か月後(申請から約50日後)に居住許可証(A4用紙)が日本に届きました。

※ネット検索すると、医療保険加入証明書なしで許可が下りた人もいます。デンマークでは住所の登録をすればマイナンバー(PCR番号)が発行されてイエローカードと呼ばれる保険証を取得でき、ビザ所有の外国人は医療費が無料なので日本で民間の医療保険に加入しないという選択肢も十分ありだと思います*3。ただし薬代は自身で支払う必要があります。日本の医療機関のようにこまめに受診して治療するという発想ではなく、基本的には近所のかかりつけ医を指定(これはイタリアの家庭医制度と類似している)して相談、必要に応じて紹介状作成という流れ。多くの人は熱発したとしてもすぐ受診というより市販薬や自己免疫機能に頼って様子見とのことです。

 

ビザ申請に関する有益情報や暮らし方はインターネットにたくさん転がっているので是非そちらを参考にしてください。基本的に私は自分に役立つ話しかできないのですが、ブログを通して「何かを失ったとしても、人生って愉快だし、なんとかなる(間に合わなかった部分は自分自身で責任を取れる)」というメッセージが伝われば嬉しいです。

では以下からは平常運転で🎉。

 

 

初の海外単身居住、事前にしておいてよかったこと

①ミレーナ(子宮内避妊システム)の装着:使用5年+3年目になるミレーナの効果で、私は月経に悩まされることがない*4ので異国での環境の変化や衛生問題に悩まずに済んでいる

②コンドーム頼みではない自主避妊:上記の効果でどこで暮らしていても予期せぬ妊娠の不安がない

③健康診断(がん、性感染症検査を含む):備えあれば患いなしということで一通り済ませて渡航した。私はこちらでは住所不定無職*5のため先述した医療等の社会保障を利用できずに今に至る。余談だが、HIV性感染症検査は、結果を家庭医に知らされることなく、住民登録(マイナンバー)がなくてもクリニックで対応可能(参考)。日本の保健所もそうだけど、公衆衛生のために敷居が低くなっているのだな

③'定期的な歯科検診:デンマークでは18歳までは公費で歯科治療が無料だが大人は高額。日本で加入した医療保険も歯科のみ補填なしだったので予防に努めて虫歯なしの状態で渡航できてよかった。お気に入りの歯ブラシ数本と大量のデンタルフロスを持参している

④ほぼ坊主:劣悪なシャワー環境でも問題ない、ヘアケア用品の持ち込みも不要で荷物がかさばらない、しばらく美容院に行く必要もない(でもだいぶ髪が伸びてきてしまった)

⑤住民票喪失:今回役所で手続きをして初めて知ったんだけど、一年以上の海外生活を予定している場合は住民票を喪失する必要があるそうだ。半年から一年の間の人はグレーゾーンで住民票をなくしても残してもいい(生活基盤は日本にあるとしてもいい)と案内されたので喪失してみた😊。その影響で日本のマイナンバーカードも廃止となった。カードそのものは返納せずに自己保管し、帰国後に再利用する流れ。今年度分の住民税の支払いは口座から引落し。また、未届けの妻・夫の証明も住民票と同時に喪失。婚姻関係(事実婚の生活実態)がほぼ解消*6されたので新しい人間関係に飛び込む覚悟ができた

⑥オンライン英会話:少しでも日本語音声使用不可の環境に慣れておいて良かった

⑦脇と尻の永久脱毛:脇はこれまで毎日剃毛していた部分なので時間短縮になっており、尻についてはウォシュレットがないので助かっている

 

後悔していること

ヴィーガン料理の自炊力をつけておくべきだった:今の同居人がヴィーガンなのでそれに合わせている。毎日自炊するように言われているのだが、レパートリーが少ない。たいてい朝食はデンマーク産ビスケット(Kammerjunker)・麦牛乳・林檎。夕食はライ麦パンに具材を乗せたデンマーク流サンドイッチ(smørrebrød)を真似たものと汁物を作っている

②日本伝統芸能の鑑賞経験をもっと積むべきだった。時々ピアノも弾きたくなる

③ありすぎて書ききれない(諦める)

 

嬉しかったこと

①カンパをいただいた:無計画なまま飛び出したためにお金がなくなったので不特定多数に助けを求めたところ、複数人から応援してもらえて本当に有難かった。研修の申し込みも間に合い、少しだけ滞在延長できることになった(しかもデンマークで出来た友人も送金してくれるという胸熱展開)

②想像以上に公共トイレが使いやすい:コペンハーゲン周辺の公共トイレは広くて綺麗。男女別のトイレの他、性別を問わないトイレも多く見かけてほっとする。イタリアの公共トイレは便座さえないところもあったから(便座の窃盗防止で)

 

③住まいがなんとか見つかった:渡航する前には決まっておらず当初1か月は最安値ドミトリーを転々としていたが、今はairbnb経由で出会った絵本作家の家に寝泊まりしていて、来月からは精神科医の女性とその家族のもとでお世話になる。再来月からはAarhusやRibeでも暮らす予定。すべて見知らぬ人の家だけど、日本でのそれに慣れすぎていて何の問題もない。airbnb経由の住まいでも住民登録(マイナンバーであるPCR番号の取得)ができる場合があるが、結局はホスト次第(事前に確認できると良い。私は入金後改めて自己紹介したところ3ヶ月以上滞在するなら住民登録OKだよと言われた)。そして10万〜50万くらいのデポジットを支払えてかつ英語が堪能な人は、デンマークのコレクティブハウスのコミュニティがおすすめ。ただし夏季のみの賃貸も多い。周囲から紹介されたのは、村の仕事を手伝う代わりに無償で暮らせるコミュニティビレッジ(デンマーク最大のエコビレッジ・Svanholm)。他にも、個人宅等に住み込みで働くことで家賃不要のマッチングサービス(workaway.info)は多くの方が利用しているようだ。「教育関連のプロジェクトで学校に住み込みで働けて良かった」「家事をするはずだったけどホストファミリーと相性が悪くて途中で離れた」など色々な意見を聞いた。私の英語力では無賃労働の中で交渉してフェアな関係に挑むことが出来ないので、とりあえず(相当な粗相をしなければ)追い出される不安のない有償の住まいを今は選択している

ホストが大事にしている花や庭の水やりが私の役目になっている。欠かしてはいけない日課。手を抜いてはいけない何かを世話できるということは幸福なのだとわかる

 

ひとまずの所感

①どこにいても変われない、変わらない:新しい経験や学びはたくさんあるけれど、人生の何に価値を置くかはブレないし、言うことやることは結局同じ

 

②言語能力が不足しているおかげで、出会いにくかった人と出会えている:日本では日本語を過剰に使ってしまう私がいて、自分が削られないように保守的な人とはあまり親密関係に踏み込めなかったけど、こちらではそうでもない。フェミニスト話をしたらめっちゃ嫌な顔をされたけども…

 

③ナンパ師(ここでは、どこか浮き世離れしていて好奇心旺盛な男、新しい刺激に弱く、共通項がない他人の懐に入る技術が高い人を指す)が人生の節目に現れていつも私を助けてくれるということ:ナンパ師に拒絶反応が無いのは、運よく嫌な思いをしていないのもあるけど、私自身もネットナンパ師だからかもしれない。今もインターネットで見つけたデンマークに縁のある人々に突然連絡を入れている

 

④あなたのつまらないと感じている人生を私で埋めようとしないでほしい、ということ:これは8年前の契約結婚時に「あなたに幸せにしてもらおうとなんて思っていないし、あなたを幸せにすることもできない。私を幸せにできるのは私だけである(あなたも同じ思いなら、そのうえで、私たちは愉快に関係することができる)」と感じていたことを思い返している。旅の間はいつもそうだが、自分からこまめに人と連絡取ろうと全く思わないけど、ふと思い出したように「あのさ」とあっさり連絡をくれる人のことが大好き。いつ散ってしまうかもわからない余生なので、一方的に消費される誰かの人生の道具になりたくないし、だからこそ生き延びることを諦めない人たちと繋がりたい

 

今後について

もともと、性教育の取り組みが面白いと思っていたこと(全国放送の子ども向け番組で様々な体型や特徴を持った一般人たちが全裸になる番組がある)、フォルケホイスコーレ*7とLGBTQ関連で先進国であるという以外は何も下調べもせず勢いのまま渡航してしまって、今ようやくデンマークについて情報収集している。北欧の社会福祉はもちろんのこと、ヤンテの掟(Janteloven)、現代にかけては「デンマークにおける宗教の重要性は年々薄まっており、キリスト教徒がまばらになりつつあるという話も興味深かった。C.クラウチ『グローバリゼーション・バックラッシュ』書評「富山は日本のスウェーデン」なのか――井手=小熊論争を読み解くというSYNODOS記事も面白かった。移民施策についての解像度も少し上がってきたかな…。日本で生まれて日本で生きてきた、日本にルーツのある自分自身とそれを取り巻く社会について改めて考える機会を得れて心から嬉しい。政治家とも交流してくる予定。その他デンマークに関する面白そうな情報があればぜひ教えてください。よろしくお願いします!

 

なにより

コペンハーゲン行きの航空券を買ったという奔放な人たちから連絡があり驚いている。飛行機も物価も高額ですが、こちらで会える方がいたら是非ご連絡ください。もし渡航によって経済的に困窮したら、帰国した私(今回の滞在で全財産を失う)と一緒に一から立て直しましょう

 

毎日水をやり続けたら咲いた花、すごく嬉しかったです

*1:学生ビザと違ってワーホリビザそのものは無償

*2:精神保健に関する仕事でイタリアに渡航する必要があった

*3:ただ、特段の事情があるわけではなく余暇で滞在する外国人がデンマーク社会保障の恩恵を受けるのならば、個人の考えとしては、現地にしっかりお金を落とすとか、ボランティア活動をするとか、出来れば働いて納税できたほうがよいなと。私の場合は年齢制限があり再申請できない状況だったので、医療保険未加入を理由にビザが却下される可能性を避けたかったのと、自分が万が一死亡した時に若い親族に金が入って欲しかったので民間保険に加入した

*4:個人差が大きいが、私は現在下着が汚れないレベルの僅かな経血が2日間あるくらい

*5:日本企業のリモートワークを週10時間程度しているので厳密には無職ではない

*6:しかし私物はまだ家にあるし、水光熱費は私がまだ支払っていて、公正証書もまだ残っている

*7:グルンドヴィのコンセプト「人間同士の対話による相互の人格形成」を土壌とした北欧独自の宿舎型成人教育制度。 デンマーク国内では約70校あり、175年以上の歴史、文化と伝統を継承している。でも私は計画が杜撰で結局行けていない

近況と訃報と

Cecilie Nørgaard著『デンマークジェンダーステレオタイプから自由になる子育て』を読了した。訳者であるさわひろあやさんが、あとがきにて、デンマーク元首相(初の女性首相)の子どもたちについて記述している。そこには、元首相の第二子が思春期にはノンバイナリーを公表し、2021年の国営放送登壇時にトランスジェンダーであるとカミングアウトしたことが書かれている。

デンマーク発 ジェンダー・ステレオタイプから自由になる子育てー多様性と平等を育む10の提案|さわぐり (note.com)

デンマーク発 ジェンダー・ステレオタイプから自由になる子育て 多様性と平等を育む10の提案 – [著]セシリエ・ノアゴー [訳]さわひろあや | 図書出版 ヘウレーカ (heureka-books.com)

これは決して突発的な文章ではない。Cecilie Nørgaard氏が一貫して、ジェンダー教育の提言と同時に性的マイノリティの存在を力強く語っているため、自然な形であとがきがそれに連帯しているのだ。LGBTQという言葉がタイトルにない育児・教育本の中で、これほどにトランスジェンダーをはじめとした性的少数者について触れられ、その存在の重さが異性愛者やシスジェンダーの男女とも同じ熱量で書かれた本を私は読んだことがなかったかもしれない。男女について書かれる読み物では、いつも性的少数者は後回しか、特設コラムに注意書きされるような存在だったから*1

 

性別違和や非異性愛、あるいは規格外の肉体や関係性を生きるということは、時に想定外で人生の選択を流動的なものにする。本来の性質を幼少期から自覚していることもあるし、随分後から自身の望む生き方に気付くこともある。同性の子どもたち同士であってもその中には当然差異がある。個人の好みや未来の選択は人の数だけあり、性別を理由に身の回りの大人がそれを決めつけて良いものではない。実は異性愛という属性をどう生きるかということも、本来もっと多様なはずである。しかし「常識」「道徳」「健全」という基準で、性別やセクシュアリティを理由に自他の生き方を抑圧し、競争させ、裁こうとするならば、その先には華やかな絶望しかないだろう*2。著者は「子どもにかかわるすべての大人が、男の子とは、女の子とはこういうものだという思い込みで子どもを型にはめ込もうとする現実に批判的に向き合うことで、それを少しずつ変えていける(本書192pあとがき)」と述べる。人と人が共に生きるということの困難さと素晴らしさを確かに知っている人の熱意と意志を受け取り、胸を撫でおろしながら最後のページを指で閉じた。現在デンマーク滞在中のため電子書籍が出ていたことも有り難かった。

 

デンマークは、実はジェンダー推進国といわれる北欧の中では最下位であり、性暴力告発の発端となったme too運動についても当時少し遅れをとったそうだ。女性への教育水準はとても高いのに、企業の中で重要な役職についている役割はとても少ないし、男女賃金格差の問題も解消されていない。日本社会でずっと育ってきた自分は(嫌な共感の仕方ではあるけれども)そこについ親近感を持ってしまうし、その上で先を行くデンマークから学べる部分があるのではないか、なんてことを思っている。つい先日「相手の合意なしにご飯を奢ることは、相手への意思決定の軽視につながるからやめたほうがいい」とデンマークの女性から注意を受けたという日本からデンマークに留学している人のブログを読んだが、「合意」がセックスの誘いのみではないことを示す好例だと思った。

私は19歳時の性暴力被害から今までの12年間、決して平等ではない、格差のある個人間でフェアな人間関係を築くことは可能かどうか、何をすればそれに近づけるのかということに恐ろしいくらい拘り続けてきた。それは、性的行為(にまつわる妊娠と避妊、性感染症予防と治療、ジェンダーセクシュアリティ、ポルノの利用経験、支払いを含む金銭の介入、親密圏の境界線)を問うことでもあったし、それはポリー実践、労働問題やセックスワーク家庭内暴力、ケアの倫理と対人援助を考えることと地続きであった。民主主義*3の価値とその追求の仕方を、性暴力以降の性的行為から学んだのだと思う。そのためか、ただ自然に(特別なことでも一方の不安や疑いを解消するためでもなく)あっけらかんと「合意」を確認し意思表示することが前提の今の暮らしは信じられないほど性に合っていて穏やかなのだ。女とみなされた人が乳首を出したら罪に問われる日本とは違って裸になることが罪ではない法律があることも心の底から嬉しい*4。そして今月に入ってからは毎日のようにエメラルド・フェネル『プロミシング・ヤング・ウーマン』を再視聴している。甘い言葉で愛玩されて、けれども真顔で理不尽さに抗議すれば掌を返される、そういう扱いを受けて生きることの苦痛を私もあなたも知っているはずだ。性暴力が跋扈する社会と、結局は痛い所から目を反らすことのできる「nice guy」たちの恐ろしさ(これは私の中にも確実にある芽である)を噛み締め、ワーグナーのオペラ『トリスタンとイゾルデ*5』のように魂の片割れへの贖罪と永遠の愛の中を生きた主人公の孤独に想いを馳せている*6

(C)Nancy Steiner/Universal Pictures https://www.moviecollection.jp/news/91620/

 

もうすぐデンマークに滞在して二か月が経つ*7。友人はまだ少ないけど、変な生き物だと認識されながら関係を築いている。友人のうちの一人(彼女はデンマーククィアコミュニティの一員である)が「デンマークにはハッピープライドが2回あるから好きなんだよね(世界的な祝いである6月と、デンマークで祝う8月)」と話してくれた。1989年、世界初の同性パートナーシップ制度が誕生した*8のもデンマークで、2006年には未婚女性や性的マイノリティ女性の人工授精が無償になっている*9。2014年、北欧初のセルフID法が制度化されたのもデンマーク*10。少し古いデータだが、デンマーク自死予防研究所とストックホルム大学によれば、同性婚法制化前と比較して性的少数者の自死率が46%減少していたという研究報告もある。LGBTQの労働環境をめぐるデンマークの研究ではこちらが読みやすい。とはいえ、クィアコミュニティとは別の場所で出会った友人に、パンセクシュアルやノンバイナリーの話をしても「何それ?」という顔をされることもあった。ただ同性パートナーシップ、養子、離婚やステップファミリー等様々な家族の形があることが日常の風景だからか、「私は日本でこう生きてきたんだ」と語ると、「あっそうなんだ」と受け止めてもらえる。自分と異なる生き方や価値観を持つ他者と出会った時に、「あっそうなんだ」で終われる(そして「じゃあ、私たちの関係をこれからどうしていく?」と問いを持てる)、という世界で息ができることがなにより嬉しい。こういう場所がほしくてこれまで小さなコミュニティを創り続けてきたはずだから。

 

様々なマイノリティ属性を持つ人が暮らす街で、同族・同質性に埋もれることができないからこそ、個人としてどう生きたいかに磨きがかかっていくのかもしれない。個として生きるということは、ちっとも寂しくないし、時には目を開きたくなくなるほど寂しい。水辺で燃え上がる炎を眺めた夏至*11の帰路、「一人旅って時々寂しくならない?」と聞かれたので、私はどこにいてもさみしくないしどこにいてもさみしい、だからどこで生きようと同じなのだと返した。でもこれはきっと、生き延びた人間の言葉だ。生き残ってしまった側、残された側しか、さみしさを表現することはできない。つい先日、トランスジェンダー当事者が職場での不当な扱いを訴え勝訴したという報道(判決文*12)を見て心の底から喜んだのも束の間、本日は真逆の悲しいニュースが流れてきた。クィアコミュニティのだれか、それも自分よりも若い人が命を奪われる*13というのは心の底から悔しい。

コペンハーゲンで様々な養育者が子どもたちと公的機関で過ごしているのを毎日眺めるうちに、大きな心境の変化があった。日本にいた頃、私は子どもを産んだ人、あるいは子育てに挑む人たちに対してどこか他人事というか遠い眼差しを向けていたのではないか、と振り返るようになった。異性愛、シスジェンダー、一夫一妻制、理想の配偶者・親子関係といったステレオタイプがあったとしても、あなたが子育てをするということが窮屈なものであってほしくなかった。ーーだったらそれに加担してはいけなかったはずだ。こちらから歩み寄らなければいけなかった。規範的な家族と育児を求める社会が確かにある、その中でそう生きられない人を決して嘲笑ってはいけないはずだ。偽物か本物かという物差しで誰かを裁こうとする態度から解放されたい。外側から暴かれるのではなく、自分の望んだタイミングで、内側から意志表示をさせてほしい。あなたたちと合意が取れる日を待ち望むことをどうかゆるしてほしい。

 

夏至祭の帰り道、湖に落ちていく夕日と岸辺の炎を眺めて



*1:海外の英語学習アプリを使っていると「his husband」「her wife」という言葉が当たり前に出てくる。小さいことのように思われるかもしれないけど本当に嬉しくなる

*2:未知の生き方との出会いは、結果的に自身の生を揺らがし、助けるものであるはずだと私は考えている。不快感や無関心と対峙した先で、社会の分断構造を教えられ、忘却された小さな死が呼び覚まされるだろう。社会から疎外されて来た人たちはいつどの時代にも存在してきたが、過去を想像する時、時を超えて哀しみや慈しみ、生き延びることの歓びを私たちに与えるのである

*3:民主主義とは、本当に小さな一人ひとりの面倒くさくて切実な思いを無かったことにせず、その上で折り合いをつけるための方法であり思想だなのと思う。先日訪れたルイジアナ近代美術館(詳細)の在り方に私はえらく感動してしまったのだが、すべてを歓待し愛される場が成り立つ条件には民主主義と愛されるための技術が機能している。それを考えるきっかけとなった旅行会社のエッセイが素晴らしかったのでシェアしたい。

"みんな来てほしい、この場を好きになってほしいという願いが見えています。公共の建物は、こうでなくてはいけない。東京都庁のように、「ここは為政者の城だ、関係者以外は来るな」と主張するような建物を、税金で建てるのは本来ならおかしいことです。為政者に擦り寄ることで生活し、民主主義を知らない人々が選んだ設計は、いつまでたっても誰からも愛されず、目に入ると悪いものを見たような気持にさせられます。そう考えると建築とは正直なものだと思います。その姿だけで、愛されたり、憎まれたりする。愛されたいと願うデザイナーは、それなりの仕掛けをしています。いい建築とはそういうもの"

*4:参考 https://wildaboutdenmark.com/go-for-a-swim-without-wearing-swimwear/ しかし、その日がたまたまだったのか、わくわくして訪れたヌーディストビーチに女性らしき人はいなかった

*5:


www.youtube.com

*6:作中、男性らが女性蔑視的な意味合いで「ストリッパー」という言葉を頻回に使用する。彼女が、ストリッパー・セックスワーカーを演じての復讐を選んだ意味についても改めて考えたい。

ネタバレにはなるけれど、鈴木みのりさんのwezzy記事で書かれた女の連帯についての指摘は何度も読みたくなるし、手塚さんの「プロミシング」の解釈にはやはり泣いてしまう。「自分がナイスガイかは置いといてだな、少なくともそう見えるよう行動してきたつもりではあったが、この映画を観た今マジで自信が無くなってしまった」と語る男性のブログも必読だ。何故かというと、非暴力な良い人でいたい男性にこそ刺さるべき作品だから。そして下記の2つの感想記事も好きで、ぜひ読んでほしい

◆変わらない世界へようこそ 映画『プロミシング・ヤング・ウーマン』/Yosuke Hiratsuka https://note.com/yosuke_hiratsuka/n/n6f0f34c4f684

◆本と映画の覚書『プロミシング・ヤング・ウーマン』/萩尾雅縁 https://ncode.syosetu.com/n3320gl/238/

*7:節約のために一日二食の菜食中心自炊をしている(毎日が空腹との闘い)。日本人コミュニティと関わらないというルールの下で、「ジャパニーズレストランでしか働けないのでは」と呆れられる英語力で、コネクションなく住まいを探すのには精神的にしんどかったが、来月からの住まいがようやく見つかった。毎月見知らぬ人の家を渡り歩くことが決定。勢いのままに奔走していた10年前のあの日々がカムバックというか、日本にいる時とやっている事が変わらない自分がそこにいて、つい笑ってしまう

*8:同性婚の法制化は世界的には遅くて、2012年である

*9:参照:『デンマーク×セクシャリティー』https://denmark-ohanashikai.peatix.com/ ジェンダーの話題の他、「年齢や立場に関わらず人間は平等なのだ」という価値に基づき、半ば強制的に70年代からMr.やMs.を使わなくなり敬語も使わなくなった、という話もあり羨ましいとも

*10:https://www.thecanary.co/global/world-analysis/2023/01/11/a-look-at-the-15-countries-which-now-allow-gender-self-id/

*11:https://www.daenemark-reisen.com/en/denmarks-sankt-hans-aften-explains-witches-and-rain/?fbclid=IwAR1Tjx7881qXviD1-BYoctBUk_-3LV9CSSEnJQ_4qxK1E47xvm57z2P9PCg

*12:https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/191/092191_hanrei.pdf

*13:自死遺族や大切な誰かを喪った人のためのコミュニティがあるので必要な人はつながってほしい wish you were hereの対話 | stand.fm

デンマークに滞在して1か月が経過した

初夏のコペンハーゲンを探索していると、子どもの頃、大事にしていたものと再び巡り合う。歩き始めれば至るところに、憩いの場があり、遊具があり、大自然がある。そこには立ち入り禁止の柵もなく、きっとたくさんの危ない目にも怖ろしい目にも遭うことができる。好奇心というものの根源を撫でるような、冒険への誘いがあるのだ。私の子ども時代と違うのは、あまりに多様な肌の色、人種、言語、服装、移動手段、表情、親密圏を持っている人々が行き交う光景であること。じろじろ見(られ)ないし、舌打ちもし(され)ない。そうだよね、心地よい。

 

たくさんの課題や優先すべき事項を日本に残したままここに到着してしまった。そのため現在進行形で対応を続けている。その一つが帰国後の住まいに関してで、久々に私を産んだ人・A子さんに連絡を取る。コペンハーゲン市内は誇張なく子どもだらけで(養育者の性別もパートナーシップも様々と見受けられる)、彼らののびのびした姿を見ると、家庭の中でただ私として自由に生きることを肯定してもらえた幼少期の記憶が反芻される。「子どもの頃の豊かな記憶を思い出しているよ」と伝えたら、いつも陽気な彼女が「それでも自分の子育ては間違えていなかったとか、今も悔やまない日はない」と珍しく弱音を吐くものだから、私は「何を言ってるの、過去には戻れないのだから、今以降を愉快に生きるしかないでしょう」と当然のように返す。「まあ、そうだよね」と彼女も即答する。

 

昨年夏にデンマーク渡航を決めてから出国までの間に想定外の縁が出来て、秋には30年間の人生をまとめたZINEを発刊し、今年の春にはストリップの同人誌『イルミナ』でも極めて私的な寄稿をさせてもらった。スト客の千尋さんから「あなたの文体はクリシェと無縁の瑞々しさに満ちていて、他の誰でもなくこの人のものだ、としかいいようがない」という感想をいただいて、心の底からあたたかくそしてしんみりした気持ちで四人部屋のシングルベッドで長い眠りについた。

私はさみしいという感情があまりない。あまりないというのは、死者(訃報の知らせが届いた他者の存在)に対してはいつも、いつでも、いつだって、とてつもなく寂しいのだが、それ以外に対して恒常的なさみしさを抱くことはないということである。さみしいのならばそれが染みつくまで白紙に書き殴ればよいものと考え、他者と共有するという発想をこれまで持ち合わせてこなかった*1

出国直前に中学時代の恋人(今はかけがえのない友人である)が会いに来て、別れ際に「あなたが海外に行ってしまうなんて、さみしい」と泣き出してしまった。私は想定外の涙にポカンとしてしながらも彼女にまた会いたいなあと素朴なよろこびを抱いた。渡航に関して、言葉の壁に対する不安はあった(初の一人海外で無事に飛行機の乗り換えができるかとか)が、親しい人やコミュニティと離れるからさみしいという感覚はどこにもない。生き延びさえすれば永遠の別れはないから。そして、私の文体が私だけのものであるように、私の感性も、私の基盤とする価値も、日本を離れようとどこにいても変らないのだということを再発見する。私は私でしかない、それだけがこの身体のすべてを満たすように、循環していく。

 

生命力豊かな木々や花々、山々を前にするとサウンド・オブ・ミュージックのメロディを口ずさんでいる自分がいて、オーストリア行きの切符を購入する*2。『エーデルワイス』『私のお気に入り』でも有名だが、小学生から中学生まで所属していた地域の合唱団で練習した思い入れのある作品でもある。

当時の私は場面緘黙症(未受診未診断)で、4~5年の間、自宅以外では誰とも一切話せないまま小学校に通い、この合唱団にも通っていた。「(想定した言語を)話せない」人と出会うとき、多くの人は奇妙な生き物に遭遇したような神妙な顔をする。音声言語を使って応答しない(できない)私を見た同級生や同期の子たちの動揺を今でも思い出すことができる。休憩時間に一人ぼっちでも、誰とも会話が成り立たなくても、私は音楽を味わいそれに乗って歌うことはとても好きだったので、合唱団のある週末がいつも待ち遠しかった。年一回の山奥での合宿の時、私と共同生活をしなくてはならない周りの子たちは本当に大変そうだった。コミュニケーションの取れない私と相部屋になることを嫌がる子もいたが、歌を唄えれば万事問題なしの私としてはそんなことは全く気にならなかった。その時からすでに自分は異物で、この世界からはみ出ているらしい、という自覚はあった。子どもの頃観た『オペラ座の怪人』のファントムや『パリ・ド・ノートルダム』のカジモド、そして大人になってから観た『エレファント・マン』は、心の友でもあった。

なぜか中学生以降は日本語がペラペラになったので、次第に友人もできていった。もともと疎外の感覚(否定的な意味合いではなく単なる事実として)の中を生きていたので、女の子と付き合うことになった時も異性愛者ではない自己に疑問も恥の意識も一切抱かなかった。言葉が話せなかった過去をしばらく忘れかけていたが、それを思い出すきっかけになったのは、それから十五年後の、高次脳機能障害を持つ人との出会いだった。私は言語能力が必須である相談員の仕事に就き、脳損傷の後遺症である認知機能障害や言語障害を持つ人と関わることになっていた。たとえば失語症という疾患は、話す・聞く・読む・書くといった言語野の機能が低下する疾患である。思うように言葉を理解し表出できないことの葛藤は大きいとされ、母語であるのに異国で生きているようだと表現されることもある。しかし、失語症を持つ人の中には、言語的コミュニケーションが十分に取れなかったとしても、非言語的コミュニケーションを駆使して他者と交流したり、どんどん外に出て、美味しいものを味わい、美術館等で作品に感嘆し、美しい写真を撮っている人たちが沢山いる。「その土地における主流の言語を使えない」「音声による話し言葉を使えない」ということは、その人の価値を、その人の生の奥行や豊かさを損なうことでは決してない。かつて言葉を話せなかった私も当事者としてそれを知っていた。また、今ではろうの友人や発達・精神障害をもっている友人との書き言葉ベースのコミュニケーションも日常にある。口語会話が優位とは限らないという思いで、今日も紙とペンを持って移動している。もともと物心ついた時から、日本にいてもどこにいても帰属意識がないし、言語が本当に通じたという感覚はほとんどない*3ために外国での暮らしも苦ではないのだろう。

19歳で性暴力被害に遭ってからの4年間は大学にほとんど行けなくなり、学ぶことの楽しさを享受する時間や感覚を失ってしまった。生き延びた12年間で読んだ本たちは、自分の心的外傷と少しでもうまく付き合っていける内容かどうかで選択されたように思う。それだけがずっと心残りだったから、ある程度過去の整理がついた今、純粋に学びに来れたことが心の底から嬉しい。渡航の理由はいくつかあるがこのことが何より大きい。「せっかくの留学なのだから有益なコネクションを作らなければ」「この年齢でこの英語力かあ」と感じないか、といえば嘘になるが、時を戻して学び直しているのだという気持ちで(10歳若返って21歳という設定にして)、自分の能力に深く落ち込むこともなく自分のペースで新しい言語や文化に触れている。

そして子どもの頃から幾度も公道や公共交通機関で性暴力被害に遭ってきた経験も思い出される。私にとって日本の公的スペースは「性暴力被害に遭うかもしれない場所」と認知されてしまっている現実、外に出る/あるいは肌を露出して生きるということがある種の闘いのようになってしまっている現実を直視してなんとも悲しい気持ちになる。しかし、デンマークではそのような不穏な予感が激減していて(単に運が良いのだとは思うが)、それだけでも来れて良かったと思う。

 

Nyhavnの海辺では、勢いよく洋服を脱ぎだす子どもたちや女性(にみえる人)が輝いてみえて、真似して半裸状態で寝そべっていたら、いつの間数時間経っていて、火傷のように日焼けしてしまった*4。特殊な意味づけやエロティックな欲望を抱くか否かは個人の自由だが、それ以前に裸は裸というたんなる事実がある。脱いだ人がどう扱われたいかをまずは尊重し、それを踏み越えない。脱衣し肌を露わにすることを恥じる必要はない。その前提が街全体に散りばめられているような気がして、穏やかな気持ちでいられるのだった。

その日アイスクリーム屋さんの前で何を頼もうか悩んでいたら、同世代くらいの男性が声をかけてくれて、(いろいろ詳細は省くが)後日ドライブをして家にも招いてもらった。彼はデンマーク生まれデンマーク育ちで、どんな経験をしてきたか、お互いのセクシュアリティや性的同意についての話も出来て、宝物のような時間を過ごした。

これまで私は社会制度の狭間を泳ぎ、様々な親密関係を模索してきた訳だけど、不倫を含むノンモノガミーな在り方が道徳規範で叩かれ、離婚やひとり親への偏見があり、家族内の閉じたケア関係と異性愛やシスジェンダー同士の婚姻が前提である日本社会ではなく、忍耐が美徳とされずあらゆる家族の形が法的に認められているデンマークのような国で子ども時代を過ごせていたらどうなっていただろう?*5

ひょっとしたら別の生き方が出来たのではないかと、この腕を伸ばして、戻せない時計の針に触れたくもなるのだった。

ここに来てから、それ以外にも、子どもの権利、セックスワーカーの権利、産む産まないという権利、労働者の権利、移民・難民の権利*6、環境問題について改めて考える日が増えた。そのうえで、自由や責任そして自己決定とは何なのかを、狼狽えながら誤りながら、奪回してきたこれまでの日々を労うというか、自身を祝いたくなるような瞬間が絶え間なく連続していく今に焦点を充てている。

6月頭のサマータイム・21:30の夕焼け。

*1:さみしいと強く表現して相手に反応を求めることは、多くの場合、とても暴力的な態度のような気がして

*2:ちょうど8月にザルツブルク音楽祭が開催されて、ミヒャエル・ハネケの『amor』が演劇として世界初上演されるらしい。とても楽しみ

*3:非言語、たとえばダンスによるコミュニケーションのほうが通じ合えると感じる

*4:デンマークでは、森や浜辺で裸になることは合法なのだそうだ

*5:シスジェンダー男性以外と事実婚していたかもしれない

*6:特に入管法改案のタイミングで渡航しているのもあり、引き裂かれる家族の在り方、移民先で生まれた子どもへの社会的保障について考えていた。しかし、日本への移民を経験した同世代女性と偶然この土地で出会い、彼女自身の言葉をたくさん受け取る中で、自身の特権性に由来する語彙の少なさに心の底からドン引きしている。支援者に都合の良くない当事者、あらゆる形で生きている当事者の声を聞かなければ、慈善的な発言は空虚あるいは害悪でしか無いと性暴力サバイブの中で知っていたはずなのに、である