To be naked is not a grief

Denmark放浪記・奔放な人生を祝って

デンマークに滞在して1か月が経過した

初夏のコペンハーゲンを探索していると、子どもの頃、大事にしていたものと再び巡り合う。歩き始めれば至るところに、憩いの場があり、遊具があり、大自然がある。そこには立ち入り禁止の柵もなく、きっとたくさんの危ない目にも怖ろしい目にも遭うことができる。好奇心というものの根源を撫でるような、冒険への誘いがあるのだ。私の子ども時代と違うのは、あまりに多様な肌の色、人種、言語、服装、移動手段、表情、親密圏を持っている人々が行き交う光景であること。じろじろ見(られ)ないし、舌打ちもし(され)ない。そうだよね、心地よい。

 

たくさんの課題や優先すべき事項を日本に残したままここに到着してしまった。そのため現在進行形で対応を続けている。その一つが帰国後の住まいに関してで、久々に私を産んだ人・A子さんに連絡を取る。コペンハーゲン市内は誇張なく子どもだらけで(養育者の性別もパートナーシップも様々と見受けられる)、彼らののびのびした姿を見ると、家庭の中でただ私として自由に生きることを肯定してもらえた幼少期の記憶が反芻される。「子どもの頃の豊かな記憶を思い出しているよ」と伝えたら、いつも陽気な彼女が「それでも自分の子育ては間違えていなかったとか、今も悔やまない日はない」と珍しく弱音を吐くものだから、私は「何を言ってるの、過去には戻れないのだから、今以降を愉快に生きるしかないでしょう」と当然のように返す。「まあ、そうだよね」と彼女も即答する。

 

昨年夏にデンマーク渡航を決めてから出国までの間に想定外の縁が出来て、秋には30年間の人生をまとめたZINEを発刊し、今年の春にはストリップの同人誌『イルミナ』でも極めて私的な寄稿をさせてもらった。スト客の千尋さんから「あなたの文体はクリシェと無縁の瑞々しさに満ちていて、他の誰でもなくこの人のものだ、としかいいようがない」という感想をいただいて、心の底からあたたかくそしてしんみりした気持ちで四人部屋のシングルベッドで長い眠りについた。

私はさみしいという感情があまりない。あまりないというのは、死者(訃報の知らせが届いた他者の存在)に対してはいつも、いつでも、いつだって、とてつもなく寂しいのだが、それ以外に対して恒常的なさみしさを抱くことはないということである。さみしいのならばそれが染みつくまで白紙に書き殴ればよいものと考え、他者と共有するという発想をこれまで持ち合わせてこなかった*1

出国直前に中学時代の恋人(今はかけがえのない友人である)が会いに来て、別れ際に「あなたが海外に行ってしまうなんて、さみしい」と泣き出してしまった。私は想定外の涙にポカンとしてしながらも彼女にまた会いたいなあと素朴なよろこびを抱いた。渡航に関して、言葉の壁に対する不安はあった(初の一人海外で無事に飛行機の乗り換えができるかとか)が、親しい人やコミュニティと離れるからさみしいという感覚はどこにもない。生き延びさえすれば永遠の別れはないから。そして、私の文体が私だけのものであるように、私の感性も、私の基盤とする価値も、日本を離れようとどこにいても変らないのだということを再発見する。私は私でしかない、それだけがこの身体のすべてを満たすように、循環していく。

 

生命力豊かな木々や花々、山々を前にするとサウンド・オブ・ミュージックのメロディを口ずさんでいる自分がいて、オーストリア行きの切符を購入する*2。『エーデルワイス』『私のお気に入り』でも有名だが、小学生から中学生まで所属していた地域の合唱団で練習した思い入れのある作品でもある。

当時の私は場面緘黙症(未受診未診断)で、4~5年の間、自宅以外では誰とも一切話せないまま小学校に通い、この合唱団にも通っていた。「(想定した言語を)話せない」人と出会うとき、多くの人は奇妙な生き物に遭遇したような神妙な顔をする。音声言語を使って応答しない(できない)私を見た同級生や同期の子たちの動揺を今でも思い出すことができる。休憩時間に一人ぼっちでも、誰とも会話が成り立たなくても、私は音楽を味わいそれに乗って歌うことはとても好きだったので、合唱団のある週末がいつも待ち遠しかった。年一回の山奥での合宿の時、私と共同生活をしなくてはならない周りの子たちは本当に大変そうだった。コミュニケーションの取れない私と相部屋になることを嫌がる子もいたが、歌を唄えれば万事問題なしの私としてはそんなことは全く気にならなかった。その時からすでに自分は異物で、この世界からはみ出ているらしい、という自覚はあった。子どもの頃観た『オペラ座の怪人』のファントムや『パリ・ド・ノートルダム』のカジモド、そして大人になってから観た『エレファント・マン』は、心の友でもあった。

なぜか中学生以降は日本語がペラペラになったので、次第に友人もできていった。もともと疎外の感覚(否定的な意味合いではなく単なる事実として)の中を生きていたので、女の子と付き合うことになった時も異性愛者ではない自己に疑問も恥の意識も一切抱かなかった。言葉が話せなかった過去をしばらく忘れかけていたが、それを思い出すきっかけになったのは、それから十五年後の、高次脳機能障害を持つ人との出会いだった。私は言語能力が必須である相談員の仕事に就き、脳損傷の後遺症である認知機能障害や言語障害を持つ人と関わることになっていた。たとえば失語症という疾患は、話す・聞く・読む・書くといった言語野の機能が低下する疾患である。思うように言葉を理解し表出できないことの葛藤は大きいとされ、母語であるのに異国で生きているようだと表現されることもある。しかし、失語症を持つ人の中には、言語的コミュニケーションが十分に取れなかったとしても、非言語的コミュニケーションを駆使して他者と交流したり、どんどん外に出て、美味しいものを味わい、美術館等で作品に感嘆し、美しい写真を撮っている人たちが沢山いる。「その土地における主流の言語を使えない」「音声による話し言葉を使えない」ということは、その人の価値を、その人の生の奥行や豊かさを損なうことでは決してない。かつて言葉を話せなかった私も当事者としてそれを知っていた。また、今ではろうの友人や発達・精神障害をもっている友人との書き言葉ベースのコミュニケーションも日常にある。口語会話が優位とは限らないという思いで、今日も紙とペンを持って移動している。もともと物心ついた時から、日本にいてもどこにいても帰属意識がないし、言語が本当に通じたという感覚はほとんどない*3ために外国での暮らしも苦ではないのだろう。

19歳で性暴力被害に遭ってからの4年間は大学にほとんど行けなくなり、学ぶことの楽しさを享受する時間や感覚を失ってしまった。生き延びた12年間で読んだ本たちは、自分の心的外傷と少しでもうまく付き合っていける内容かどうかで選択されたように思う。それだけがずっと心残りだったから、ある程度過去の整理がついた今、純粋に学びに来れたことが心の底から嬉しい。渡航の理由はいくつかあるがこのことが何より大きい。「せっかくの留学なのだから有益なコネクションを作らなければ」「この年齢でこの英語力かあ」と感じないか、といえば嘘になるが、時を戻して学び直しているのだという気持ちで(10歳若返って21歳という設定にして)、自分の能力に深く落ち込むこともなく自分のペースで新しい言語や文化に触れている。

そして子どもの頃から幾度も公道や公共交通機関で性暴力被害に遭ってきた経験も思い出される。私にとって日本の公的スペースは「性暴力被害に遭うかもしれない場所」と認知されてしまっている現実、外に出る/あるいは肌を露出して生きるということがある種の闘いのようになってしまっている現実を直視してなんとも悲しい気持ちになる。しかし、デンマークではそのような不穏な予感が激減していて(単に運が良いのだとは思うが)、それだけでも来れて良かったと思う。

 

Nyhavnの海辺では、勢いよく洋服を脱ぎだす子どもたちや女性(にみえる人)が輝いてみえて、真似して半裸状態で寝そべっていたら、いつの間数時間経っていて、火傷のように日焼けしてしまった*4。特殊な意味づけやエロティックな欲望を抱くか否かは個人の自由だが、それ以前に裸は裸というたんなる事実がある。脱いだ人がどう扱われたいかをまずは尊重し、それを踏み越えない。脱衣し肌を露わにすることを恥じる必要はない。その前提が街全体に散りばめられているような気がして、穏やかな気持ちでいられるのだった。

その日アイスクリーム屋さんの前で何を頼もうか悩んでいたら、同世代くらいの男性が声をかけてくれて、(いろいろ詳細は省くが)後日ドライブをして家にも招いてもらった。彼はデンマーク生まれデンマーク育ちで、どんな経験をしてきたか、お互いのセクシュアリティや性的同意についての話も出来て、宝物のような時間を過ごした。

これまで私は社会制度の狭間を泳ぎ、様々な親密関係を模索してきた訳だけど、不倫を含むノンモノガミーな在り方が道徳規範で叩かれ、離婚やひとり親への偏見があり、家族内の閉じたケア関係と異性愛やシスジェンダー同士の婚姻が前提である日本社会ではなく、忍耐が美徳とされずあらゆる家族の形が法的に認められているデンマークのような国で子ども時代を過ごせていたらどうなっていただろう?*5

ひょっとしたら別の生き方が出来たのではないかと、この腕を伸ばして、戻せない時計の針に触れたくもなるのだった。

ここに来てから、それ以外にも、子どもの権利、セックスワーカーの権利、産む産まないという権利、労働者の権利、移民・難民の権利*6、環境問題について改めて考える日が増えた。そのうえで、自由や責任そして自己決定とは何なのかを、狼狽えながら誤りながら、奪回してきたこれまでの日々を労うというか、自身を祝いたくなるような瞬間が絶え間なく連続していく今に焦点を充てている。

6月頭のサマータイム・21:30の夕焼け。

*1:さみしいと強く表現して相手に反応を求めることは、多くの場合、とても暴力的な態度のような気がして

*2:ちょうど8月にザルツブルク音楽祭が開催されて、ミヒャエル・ハネケの『amor』が演劇として世界初上演されるらしい。とても楽しみ

*3:非言語、たとえばダンスによるコミュニケーションのほうが通じ合えると感じる

*4:デンマークでは、森や浜辺で裸になることは合法なのだそうだ

*5:シスジェンダー男性以外と事実婚していたかもしれない

*6:特に入管法改案のタイミングで渡航しているのもあり、引き裂かれる家族の在り方、移民先で生まれた子どもへの社会的保障について考えていた。しかし、日本への移民を経験した同世代女性と偶然この土地で出会い、彼女自身の言葉をたくさん受け取る中で、自身の特権性に由来する語彙の少なさに心の底からドン引きしている。支援者に都合の良くない当事者、あらゆる形で生きている当事者の声を聞かなければ、慈善的な発言は空虚あるいは害悪でしか無いと性暴力サバイブの中で知っていたはずなのに、である