To be naked is not a grief

Denmark放浪記・奔放な人生を祝って

近況と訃報と

Cecilie Nørgaard著『デンマークジェンダーステレオタイプから自由になる子育て』を読了した。訳者であるさわひろあやさんが、あとがきにて、デンマーク元首相(初の女性首相)の子どもたちについて記述している。そこには、元首相の第二子が思春期にはノンバイナリーを公表し、2021年の国営放送登壇時にトランスジェンダーであるとカミングアウトしたことが書かれている。

デンマーク発 ジェンダー・ステレオタイプから自由になる子育てー多様性と平等を育む10の提案|さわぐり (note.com)

デンマーク発 ジェンダー・ステレオタイプから自由になる子育て 多様性と平等を育む10の提案 – [著]セシリエ・ノアゴー [訳]さわひろあや | 図書出版 ヘウレーカ (heureka-books.com)

これは決して突発的な文章ではない。Cecilie Nørgaard氏が一貫して、ジェンダー教育の提言と同時に性的マイノリティの存在を力強く語っているため、自然な形であとがきがそれに連帯しているのだ。LGBTQという言葉がタイトルにない育児・教育本の中で、これほどにトランスジェンダーをはじめとした性的少数者について触れられ、その存在の重さが異性愛者やシスジェンダーの男女とも同じ熱量で書かれた本を私は読んだことがなかったかもしれない。男女について書かれる読み物では、いつも性的少数者は後回しか、特設コラムに注意書きされるような存在だったから*1

 

性別違和や非異性愛、あるいは規格外の肉体や関係性を生きるということは、時に想定外で人生の選択を流動的なものにする。本来の性質を幼少期から自覚していることもあるし、随分後から自身の望む生き方に気付くこともある。同性の子どもたち同士であってもその中には当然差異がある。個人の好みや未来の選択は人の数だけあり、性別を理由に身の回りの大人がそれを決めつけて良いものではない。実は異性愛という属性をどう生きるかということも、本来もっと多様なはずである。しかし「常識」「道徳」「健全」という基準で、性別やセクシュアリティを理由に自他の生き方を抑圧し、競争させ、裁こうとするならば、その先には華やかな絶望しかないだろう*2。著者は「子どもにかかわるすべての大人が、男の子とは、女の子とはこういうものだという思い込みで子どもを型にはめ込もうとする現実に批判的に向き合うことで、それを少しずつ変えていける(本書192pあとがき)」と述べる。人と人が共に生きるということの困難さと素晴らしさを確かに知っている人の熱意と意志を受け取り、胸を撫でおろしながら最後のページを指で閉じた。現在デンマーク滞在中のため電子書籍が出ていたことも有り難かった。

 

デンマークは、実はジェンダー推進国といわれる北欧の中では最下位であり、性暴力告発の発端となったme too運動についても当時少し遅れをとったそうだ。女性への教育水準はとても高いのに、企業の中で重要な役職についている役割はとても少ないし、男女賃金格差の問題も解消されていない。日本社会でずっと育ってきた自分は(嫌な共感の仕方ではあるけれども)そこについ親近感を持ってしまうし、その上で先を行くデンマークから学べる部分があるのではないか、なんてことを思っている。つい先日「相手の合意なしにご飯を奢ることは、相手への意思決定の軽視につながるからやめたほうがいい」とデンマークの女性から注意を受けたという日本からデンマークに留学している人のブログを読んだが、「合意」がセックスの誘いのみではないことを示す好例だと思った。

私は19歳時の性暴力被害から今までの12年間、決して平等ではない、格差のある個人間でフェアな人間関係を築くことは可能かどうか、何をすればそれに近づけるのかということに恐ろしいくらい拘り続けてきた。それは、性的行為(にまつわる妊娠と避妊、性感染症予防と治療、ジェンダーセクシュアリティ、ポルノの利用経験、支払いを含む金銭の介入、親密圏の境界線)を問うことでもあったし、それはポリー実践、労働問題やセックスワーク家庭内暴力、ケアの倫理と対人援助を考えることと地続きであった。民主主義*3の価値とその追求の仕方を、性暴力以降の性的行為から学んだのだと思う。そのためか、ただ自然に(特別なことでも一方の不安や疑いを解消するためでもなく)あっけらかんと「合意」を確認し意思表示することが前提の今の暮らしは信じられないほど性に合っていて穏やかなのだ。女とみなされた人が乳首を出したら罪に問われる日本とは違って裸になることが罪ではない法律があることも心の底から嬉しい*4。そして今月に入ってからは毎日のようにエメラルド・フェネル『プロミシング・ヤング・ウーマン』を再視聴している。甘い言葉で愛玩されて、けれども真顔で理不尽さに抗議すれば掌を返される、そういう扱いを受けて生きることの苦痛を私もあなたも知っているはずだ。性暴力が跋扈する社会と、結局は痛い所から目を反らすことのできる「nice guy」たちの恐ろしさ(これは私の中にも確実にある芽である)を噛み締め、ワーグナーのオペラ『トリスタンとイゾルデ*5』のように魂の片割れへの贖罪と永遠の愛の中を生きた主人公の孤独に想いを馳せている*6

(C)Nancy Steiner/Universal Pictures https://www.moviecollection.jp/news/91620/

 

もうすぐデンマークに滞在して二か月が経つ*7。友人はまだ少ないけど、変な生き物だと認識されながら関係を築いている。友人のうちの一人(彼女はデンマーククィアコミュニティの一員である)が「デンマークにはハッピープライドが2回あるから好きなんだよね(世界的な祝いである6月と、デンマークで祝う8月)」と話してくれた。1989年、世界初の同性パートナーシップ制度が誕生した*8のもデンマークで、2006年には未婚女性や性的マイノリティ女性の人工授精が無償になっている*9。2014年、北欧初のセルフID法が制度化されたのもデンマーク*10。少し古いデータだが、デンマーク自死予防研究所とストックホルム大学によれば、同性婚法制化前と比較して性的少数者の自死率が46%減少していたという研究報告もある。LGBTQの労働環境をめぐるデンマークの研究ではこちらが読みやすい。とはいえ、クィアコミュニティとは別の場所で出会った友人に、パンセクシュアルやノンバイナリーの話をしても「何それ?」という顔をされることもあった。ただ同性パートナーシップ、養子、離婚やステップファミリー等様々な家族の形があることが日常の風景だからか、「私は日本でこう生きてきたんだ」と語ると、「あっそうなんだ」と受け止めてもらえる。自分と異なる生き方や価値観を持つ他者と出会った時に、「あっそうなんだ」で終われる(そして「じゃあ、私たちの関係をこれからどうしていく?」と問いを持てる)、という世界で息ができることがなにより嬉しい。こういう場所がほしくてこれまで小さなコミュニティを創り続けてきたはずだから。

 

様々なマイノリティ属性を持つ人が暮らす街で、同族・同質性に埋もれることができないからこそ、個人としてどう生きたいかに磨きがかかっていくのかもしれない。個として生きるということは、ちっとも寂しくないし、時には目を開きたくなくなるほど寂しい。水辺で燃え上がる炎を眺めた夏至*11の帰路、「一人旅って時々寂しくならない?」と聞かれたので、私はどこにいてもさみしくないしどこにいてもさみしい、だからどこで生きようと同じなのだと返した。でもこれはきっと、生き延びた人間の言葉だ。生き残ってしまった側、残された側しか、さみしさを表現することはできない。つい先日、トランスジェンダー当事者が職場での不当な扱いを訴え勝訴したという報道(判決文*12)を見て心の底から喜んだのも束の間、本日は真逆の悲しいニュースが流れてきた。クィアコミュニティのだれか、それも自分よりも若い人が命を奪われる*13というのは心の底から悔しい。

コペンハーゲンで様々な養育者が子どもたちと公的機関で過ごしているのを毎日眺めるうちに、大きな心境の変化があった。日本にいた頃、私は子どもを産んだ人、あるいは子育てに挑む人たちに対してどこか他人事というか遠い眼差しを向けていたのではないか、と振り返るようになった。異性愛、シスジェンダー、一夫一妻制、理想の配偶者・親子関係といったステレオタイプがあったとしても、あなたが子育てをするということが窮屈なものであってほしくなかった。ーーだったらそれに加担してはいけなかったはずだ。こちらから歩み寄らなければいけなかった。規範的な家族と育児を求める社会が確かにある、その中でそう生きられない人を決して嘲笑ってはいけないはずだ。偽物か本物かという物差しで誰かを裁こうとする態度から解放されたい。外側から暴かれるのではなく、自分の望んだタイミングで、内側から意志表示をさせてほしい。あなたたちと合意が取れる日を待ち望むことをどうかゆるしてほしい。

 

夏至祭の帰り道、湖に落ちていく夕日と岸辺の炎を眺めて



*1:海外の英語学習アプリを使っていると「his husband」「her wife」という言葉が当たり前に出てくる。小さいことのように思われるかもしれないけど本当に嬉しくなる

*2:未知の生き方との出会いは、結果的に自身の生を揺らがし、助けるものであるはずだと私は考えている。不快感や無関心と対峙した先で、社会の分断構造を教えられ、忘却された小さな死が呼び覚まされるだろう。社会から疎外されて来た人たちはいつどの時代にも存在してきたが、過去を想像する時、時を超えて哀しみや慈しみ、生き延びることの歓びを私たちに与えるのである

*3:民主主義とは、本当に小さな一人ひとりの面倒くさくて切実な思いを無かったことにせず、その上で折り合いをつけるための方法であり思想だなのと思う。先日訪れたルイジアナ近代美術館(詳細)の在り方に私はえらく感動してしまったのだが、すべてを歓待し愛される場が成り立つ条件には民主主義と愛されるための技術が機能している。それを考えるきっかけとなった旅行会社のエッセイが素晴らしかったのでシェアしたい。

"みんな来てほしい、この場を好きになってほしいという願いが見えています。公共の建物は、こうでなくてはいけない。東京都庁のように、「ここは為政者の城だ、関係者以外は来るな」と主張するような建物を、税金で建てるのは本来ならおかしいことです。為政者に擦り寄ることで生活し、民主主義を知らない人々が選んだ設計は、いつまでたっても誰からも愛されず、目に入ると悪いものを見たような気持にさせられます。そう考えると建築とは正直なものだと思います。その姿だけで、愛されたり、憎まれたりする。愛されたいと願うデザイナーは、それなりの仕掛けをしています。いい建築とはそういうもの"

*4:参考 https://wildaboutdenmark.com/go-for-a-swim-without-wearing-swimwear/ しかし、その日がたまたまだったのか、わくわくして訪れたヌーディストビーチに女性らしき人はいなかった

*5:


www.youtube.com

*6:作中、男性らが女性蔑視的な意味合いで「ストリッパー」という言葉を頻回に使用する。彼女が、ストリッパー・セックスワーカーを演じての復讐を選んだ意味についても改めて考えたい。

ネタバレにはなるけれど、鈴木みのりさんのwezzy記事で書かれた女の連帯についての指摘は何度も読みたくなるし、手塚さんの「プロミシング」の解釈にはやはり泣いてしまう。「自分がナイスガイかは置いといてだな、少なくともそう見えるよう行動してきたつもりではあったが、この映画を観た今マジで自信が無くなってしまった」と語る男性のブログも必読だ。何故かというと、非暴力な良い人でいたい男性にこそ刺さるべき作品だから。そして下記の2つの感想記事も好きで、ぜひ読んでほしい

◆変わらない世界へようこそ 映画『プロミシング・ヤング・ウーマン』/Yosuke Hiratsuka https://note.com/yosuke_hiratsuka/n/n6f0f34c4f684

◆本と映画の覚書『プロミシング・ヤング・ウーマン』/萩尾雅縁 https://ncode.syosetu.com/n3320gl/238/

*7:節約のために一日二食の菜食中心自炊をしている(毎日が空腹との闘い)。日本人コミュニティと関わらないというルールの下で、「ジャパニーズレストランでしか働けないのでは」と呆れられる英語力で、コネクションなく住まいを探すのには精神的にしんどかったが、来月からの住まいがようやく見つかった。毎月見知らぬ人の家を渡り歩くことが決定。勢いのままに奔走していた10年前のあの日々がカムバックというか、日本にいる時とやっている事が変わらない自分がそこにいて、つい笑ってしまう

*8:同性婚の法制化は世界的には遅くて、2012年である

*9:参照:『デンマーク×セクシャリティー』https://denmark-ohanashikai.peatix.com/ ジェンダーの話題の他、「年齢や立場に関わらず人間は平等なのだ」という価値に基づき、半ば強制的に70年代からMr.やMs.を使わなくなり敬語も使わなくなった、という話もあり羨ましいとも

*10:https://www.thecanary.co/global/world-analysis/2023/01/11/a-look-at-the-15-countries-which-now-allow-gender-self-id/

*11:https://www.daenemark-reisen.com/en/denmarks-sankt-hans-aften-explains-witches-and-rain/?fbclid=IwAR1Tjx7881qXviD1-BYoctBUk_-3LV9CSSEnJQ_4qxK1E47xvm57z2P9PCg

*12:https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/191/092191_hanrei.pdf

*13:自死遺族や大切な誰かを喪った人のためのコミュニティがあるので必要な人はつながってほしい wish you were hereの対話 | stand.fm